初めての記事と四回目のジゼル

ブログに記事を書くのは初めてながら、今日映画館で観てきたボリショイのジゼルは人生で通算四回目の経験値。何か意味がありそうに数を並べましたが落ちはありません。

 

ジゼルは、平たく言うと男性はストーカーと結婚詐欺師、女性は恋愛脳と妖精という、まともな人間が全く出てこないストーリーで、最初に観たときは結婚詐欺師がなんの罰も受けず生き残る設定に腹を立てたりしておりました。

 

(さわやか王子が婚約者がいることを隠してジゼルを口説いて婚約し、ジゼルを思慕していたストーカーが王子の本性を暴き、ジゼルが裏切られたショックで死ぬまでが一幕。ジゼルのお墓参りに来たストーカーが、乙女のまま死んだ女性たちが変化した妖精に踊り狂わされ息絶え、続けて踊り狂わされた王子は一晩二人潰すには時間が足りないわということで夜明けを迎え生き延びる二幕で終了。)

 

最初の観劇は当時住んでいたニューヨークのメトロポリタンオペラハウスで、パリのオペラ座バレエによる公演。体型も動きもぴったりの美しい群舞に息をのみながらもストーリーのしょうもなさに落胆し、ストーカー(ハンス)が踊り疲れる演技に爆笑するアメリカ人に対して、その感覚わからない、、と思った思い出深い体験でした。

 

二回目の観劇は旅行先のサンクトペテルブルグでマリインスキーバレエ団によるもの。旅の疲れと控えめな振り付けにつまらなさを感じほぼ覚えていない残念な体験。

 

三回目の観劇は2017年のボリショイバレエ団来日公演を上野にて。ここで私のジゼル観ががらりと変わりました。キーパーソンはハンス。作者の意図はわかりませんが人の恋路を邪魔する奴としてぞんざいにしか扱われていなかったハンスが、この時の演出ではジゼルに対して無償の愛をささげる誠実な人間として演じられていました。演者も悪人面をせず演技のコミカルさもなし。王子の本性を暴くのも愛ゆえ、ジゼルの死に対する悲しみも本物、そして、妖精に殺される姿はまるで自身の愛に殉じて死ぬことができた喜びすら表現しているよう。死ねなかった王子の愛の不実さを浮き彫りにさせるような物語の帰結でした。常々ハンスの扱いに疑問を感じていた自分にとってこの解釈は一つの正解。釈然としなかった物語に答えが与えられた瞬間でした。

 

そして本日四回目は、同じくボリショイバレエによるバレエinシネマ@映画館。世界一優雅な野獣であるところのセルゲイ・ポルーニンが王子をやるということでのこのこと観劇。今回のハンスは、最初からジゼルに”生理的に無理”って扱いをされていました。残念。王子は生命力と魅力の垂れ流し。定石すぎる男たちの描かれ方に対し、ジゼルの存在感が異次元でした。演者の並外れた色の白さか体躯の細さか表情の作り方か。一幕の終わりでショックを受けて踊り回るジゼルの周りにははっきりと暗闇が見えました。

ハンスにもたれかかり間違いと気づき、母親に抱きつき、見えていない目で王子の方向に倒れこみ、王子を認識せずに息絶える。他者に与えられた恋の喜びに酔い、それが失われたときに自分の世界も終わらせた少女の視野の狭さや純粋さ。ハンスと王子の描き方にひねりがないだけに、周りの人間から浮揚しているジゼルの生き方がきれいに引き立って見えました。作者の真の意図はここだったのでしょうか。

しかし、美しく終わった一幕に対して二幕はストーリーがつながらず。一度は拒絶した王子の命を守ろうとするジゼルの心情が理解できず。今回の観劇ももやもやとしたまま終わったのでした。

 

いろいろと呟いて参りしたが、こんなに演出によって解釈が違う演目はなかなか無く、元が突っ込みどころ満載なストーリーだけに、それぞれの観劇が味わい深い思い出となっております。2015年の公演ということで、セルゲイ・ポルーニンは荒んでいた時期でしょうか。色気にはあふれていましたが時間が止まったように見える美しい着地は控えめでした。技術的なことは全く触れておりませんので、詳しい人がいましたら教えてください。

 

暗い気持ちになる演目を観てしまったので、次はすかっとドンキでも観に行きたいものです。ミハイロフスキーのドンキが好きだ!

 

それではー。